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石田のヲモツタコト

書いてるのは 石田剛 です。

除去すべきリスクとかけられる費用についてヲモツタコト

# 2007/09/03 誤字訂正 心情→信条
調べ物してて中西準子氏のサイトにある、こんな文章を見かけた。

数年前だが、埼玉県の高校の社会科学系教師が研修ということで、私の研究室に話を聞きに来たことがある。10名程度の先生と、二人の高校生に、私は水道水の発がんリスクの話をした。リスクはゼロにはできないこと、水道水による発がんリスクはあっても、それを除去するのに、非常に費用がかさむ時には、除去できないこともあることなどを話した。
 ところが、先生が納得しない。どんなに費用をかけても、人の命に関係するリスクは除くべきだの一点張りである。ついには、それは経済問題であって、環境問題ではない、環境問題はあくまでも人命に関することだから、費用を考えるべきでないと強く主張する。私は、縷々説明をした。なぜ、無限の費用をかけることはできないかということを。そうしたら、先生曰く、「私らは大人だからそういうことも理解できるが、純粋な生徒達にそういうことを教えるべきではない。あくまでも、命は、無限の価値があると教えるべきだ」と主張しはじめた。そうしたら、同行していた高校生の一人が「僕は、中西先生の言うことが分かります。子供でも、そういうこと、何となく知ってると思う」と発言した。私も驚いたが、先生方はもっと驚き、すぐに、その会は終わりになってしまった。

この文章を読む限りでは、この高校の先生は「なぜ、無限の費用をかけることはできないか」を理解していないと、石田は考える。したがって「私らは大人だからそういうことも理解できる」というこの高校の先生による発言は、真実でない可能性が高い。*1
中西氏が言う「無限の費用をかけることはできない」の「無限」と、この高校の先生が言う「命は、無限の価値がある」の「無限」は、そもそも意味が違うと石田は考える。「無限の費用」の「無限」は数量を示す言葉だ。「命は、無限の価値がある」の「無限」は数量じゃなくて、思想や信条に関する主張を示す言葉だ。


その後の高校生の発言には、石田は別に驚かない。こういうときに教師の見解に反する意見を述べられる高校生が居ることはとてもたのもしい。そういう生徒をこの場に連れて来ることができたのは、この高校の先生方の功績と考えても良い。生徒が「何となく知ってると思う」なんてあいまいなことを言わずに、「オレ(私)は理解できた。子供ナメてると、テメー(高校の先生)がバカにされんぞ」くらい言えばもっと良かった。


このとき、中西氏が「なぜ、無限の費用をかけることはできないか」についてどういう説明をしたか、石田は知らない。現時点の石田が理解している「なぜ、無限の費用をかけることはできないか」という問いへの答えは下記の通り。


まず、下記の前提条件が事実としてある。

  1. 社会のリスクをゼロにすることも、利得を無限大にすることも、そもそもどうやってもできない。
  2. 社会のリスクを減らすにも、利得を高めるにも費用がかかり、使える費用はどうやっても無限にはならない。
  3. その費用は社会全体で、よりリスクが小さく、かつ利得が大きくなるように使うべき。

このとき、どういう施策にどれだけ費用を費やすべきかは、その施策で期待できるリスク低減と利得増大の大きさに応じて、優先順位をつけて割り振るべきだ。もちろん、重大なリスクを除去するための施策は、大きな利得が得られる施策より優先順位が高いこともあるだろう。


うーむ、うまいこと「問いへの答え」にならんな。そもそも、この問いは自明な問いだな。けどまぁ、「水道水による発がんリスクはあっても、それを除去するのに、非常に費用がかさむ時には、除去できないこともある」のがなんでなのかへの答えには、たぶんなってるだろう。
そんで、この程度のことは多くの子供が理解できるだろう。少なくとも、石田はわが子には最初からこう教える。「発がんリスクは人命に関する問題だから費用は考慮すべきでない」などとは決して教えない。

*1:これ読む方は、石田はこの文章を読んだだけで、その場に居合わせたわけじゃないことには注意してほしい。