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石田のヲモツタコト

書いてるのは 石田剛 です。

「協調」について考えたこと

教育 消防団

toshi先生 のブログエントリ「教育の窓・ある退職校長の想い:昨日の『たけしの日本教育白書2008』をみて、」のコメント欄で、石田が述べたことのうち、「協調」について述べたことをまとめておく。
これは、普段からぼーっと考えてたのだが、 toshi先生 とのコメント欄でのやり取りを通じて、石田の考えをまとめて字にする機会を得た。


ある目的を持って行動する集団において、その成果を高めるために、その集団の構成員は大いに議論して、互いの意見を延べ、互いの考えを改善したり撤回したりしつつ、集団としての意見を集約すべきだ。この際は、全ての構成員が自分の頭で考え、自分の意見を述べるべきだ。
議論の過程で誰かの意見に同意し難いと考えたら、そのことを率直に述べるべきだ。質問があれば、率直に応じるべきだ。即答が難しい場合は「少し考えさせてくれ」と言ってもかまわないが、待ってられない事情を抱えている場合もあるだろう。
誰かの意見に同意できないときに、その「誰か」に堂々巡りの質問を繰り返して、議論の時間を浪費すべきでない。成熟した大人であれば、そんな「ぐずっている子供」のような発言はすべきでない。


この集約した意見に、全ての構成員が完全に同意できればそれも良いが、多くの場合はそうはならないはずだ。ほとんどの場合では、多くの構成員にとって「この『集団としての意見』に多少気に入らない部分がある」状態になるはずであり、こうでなくてはむしろ不健全だ。


しかし、各構成員はその『集団としての意見』が、どうしても個人的に許容できない内容を含んでいない限り、この意見の違いを理解かつ尊重して、協力して行動するのが望ましい。これこそが「協調」であり、このように行動できる者を「協調性が高い」と評価すべきだ。
石田は、この『集団としての意見』を集約する段階を「議論する場面」、その後の協調行動する段階を「総意に服する場面」などと呼んでいる。


もし、構成員全てを『集団としての意見』に完全に同意させようとするなら、それは「同調」を意図しているということだ。しかも、「完全に同意させようとする」何らかの力が作用するなら、それは「同調圧力」だ。
この「同調」と「同調圧力」は、「協調」とはまったく異なる概念だし、「同調圧力」の存在は「協調」を損なうことすらありうる。なぜならば、石田が知る限り成熟した大人は「同調圧力」を、許容すべきでないからだ。


この集団が、自治会や PTA のように、上下関係の無い民主的な集団であれば、『集団としての意見』は話し合いで決めるのが望ましい。採決は満場一致が理想だが、多数決に頼るほか無い場合もあるだろう。その結果決定した『集団としての意見』には、その集団の構成員全てが均等に権利と責任を共有することになる。
参考:「PTA再活用論」読んだ。 - 石田のヲモツタコト


この集団が営利企業消防団など、指揮系統を持つ集団であれば事情はちょっと異なると、石田は考えている。
まず、こういう集団でもやはり「議論する場面」は重要だ。しかし、その結果得る『集団としての意見』は、指揮者に決定権がある。指揮者が「全員で決める」と言い出さない限り、満場一致も多数決も無用だ。指揮者は、他の構成員の意見を参考にするのみで、結論は指揮者が「決定」しなければならない。
上下関係のある組織において、上に立つものは強い意志とリーダーシップを発揮しなければならず、行使できる強権に応じた重い責任を負う。上に立つものは、なかなかたいへんな仕事をすることになる。


「指揮系統を持つ集団」においては「総意に服する場面」は「指揮に服する場面」と石田は言い換える。指揮される立場の者は、「決定」に個人的に許容しがたい内容が含まれていても、それが犯罪行為の類や、明らかに危険がある場合*1でもない限り、その「決定」に従わなければならない。それができないなら、その集団から抜けるべきだ。


消防団のような組織では、活動中のほとんどの時間が「指揮に服する場面」であるはずだ。しかし、訓練や点検の後にデブリーフィングを行う機会があれば、これは「議論する場面」ということになる。このときは上下の別無く、率直に意見を述べあうべきだ。


参考:「権威」について考えたこと - 石田のヲモツタコト

*1:ただし、指揮者がその危険を理解したうえで命令しているなら、この限りでない。