石田のヲモツタコト

書いてるのは 石田剛 です。

あのとき、なにがおかしかったか解るために

 子どもらの間で『いじめ』があるとき、そのことを指摘された『いじめてる側の子ども』は、しばしば「遊びだった」「いじめじゃなかった」などと言う。ほとんどの場合、それはウソじゃない。確かに、その子らにとって、それはとても楽しい遊びであり、それが『いじめ』だという認識も無かったはずだ。石田自身が子どもだった時のことを思い出しても、思い当たることがいくつもある。

 こういうとき、子どもを諭すおとなが「それを、楽しいと感じたことがダメなのだ」とか、「楽しいと感じることが、恥ずべきことなのだ」とか言ったり、子どもに言わせたりしてはいけない。だって、それを楽しいと感じるのは、ごく自然なこと*1だ。まずは、それが楽しかったことを事実として受け容れた上で「楽しいんだけど、してはいけない」ということを、子どもらに学ばせなければならない。

 この「楽しいと感じた」という事実と、併せて「積極的に楽しんでやっていた」という事実を受け容れず、むしろ否定して、「実は楽しくなかった」「楽しむためにやってたんじゃなかった」などという虚構を創り出してはいけない。しかも、この虚構を創ろうとするのは、当の子どもではなく、周囲のおとなであることもよくある。むしろ、子どもよりおとなの方が、「楽しいと感じた」「積極的に楽しんでやっていた」という事実を受け容れたくないのだろう。それでは「楽しいんだけど、してはいけない」と理解することはできない。それではまた「楽しいからやる」に戻ってしまう。ぜんぜん学んでいない。


 「いじめじゃなかった」についても、まずはそれをしていた時点では、「本人が『いじめ』と自覚してやっていたわけではない」ことは、本人も周囲のおとなも事実として受け容れよう。その上で、実際になにをしたかを省みて、「後から考えてみると、それは『いじめ』だった」ということを、いじめた側の子どもや、周囲のおとなが受け容れられるようにしなければならない。それを受け容れることに、強い抵抗を感じる場合もあるだろう。しかし、それを受け容れた上で、「なぜ、それがダメなのか」考えなければならない。


 仲間と、予め示し合わせてやったことであれば、その事前の相談の時になにを考えていたか、どうなることを期待していたかも、振り返って考えるべきだろう。この場合も「そういう事前の準備は無かった」と思い込みたい気持ちに抗い難い場合があるだろう。しかし、まずは事実を受け容れなければ、これがダメであることを学ぶことはできない。


 これらの事実を受け容れるために、少し時間をおくべき場合もある*2だろう。ほとんどの場合、これらを受け容れるのは辛いことだ。どうしても受け容れることができない場合も、しばしばあることだろう。そして、受け容れることができたか否かにかかわらず、その子どもが赦されることがぜひとも必要だ

 この『赦される』ことについては、いじめられていた子ども本人や、その子どもの家族からしてみれば、腹立たしく思うことだろう。その、いじめられていた本人や、子どもの家族が、いじめていた子どもを赦す必要は無い。しかし、ほかの誰かから赦されることは、ぜひとも必要なことだ。


 子どもに説教をして、子どもから「反省している」とか「謝りたい」とかの言葉を引き出して、謝りに行かせるのは、たぶん害あって益無しだ。その説教のために拘束されていることは、子どもにとっては辛いことだ。そして、ほとんどの子どもは、ウソで良いから「反省している」「謝りたい」と言えば、その苦痛から開放されることをすぐに理解する。それで「謝ったふり」だけさせて、肝心の「事実を受け容れる」「考える」というプロセスを飛ばしてしまうのでは、せっかくの学ぶ機会を棄ててしまう*3ことになる。子どもらは、ただ「説教から解放されるにはどうすれば良いか」を学習するだけだろう。それではダメだ。

--
石田剛 IshidaTsuyoshi

*1:See:『いじめ』って楽しいんだよね - 石田のヲモツタコト

*2:あまり時間をおき過ぎると、そのとき「なにを感じていたか」を忘れてしまう。「なにをしていたか」は、字に書いて残しておくことができるが、「なにを感じていたか」字に書いて残しておくことはたぶんできない。その事実を受け容れないまま、「なにを感じていたか」を言葉にして書き出す方法はたぶん無い。

*3:その機会を得た時にしか学ぶことができないというわけじゃない。そういう機会を得た場合でなくても、子どもらがそれを学ぶよう、周囲のおとなが働きかけることはするべきだ。